Profile
【ゲンリッヒ・ネイガウス孫弟子】
数奇な運命をたどる正統派ピアニスト佐藤ひでこ
ロシア・ピアノ学派の開祖であるゲンリッヒ・ネイガウス直弟子に
1980年代の旧ソ連時代から学び ネイガウス奏法と
30年以上探求してきた独自の奏法を結びつけた演奏は
本能からほとばしる極めて鋭い感性と至極の繊細な美音で紡ぎだす
「天才的な間合い!」
《ダン・タイ・ソン(1980年ショパン国際ピアノコンクール優勝)霧島国際音楽祭1988年より》
非常にシャープな感性、純粋で真摯な音楽性、非凡な個性、貴重な才能
《柴田龍一(音楽評論家)ムジカノーヴァ 2020年 5月号より》
1962年父 佐藤宗司(元フィリップスライティング株式会社取締役会長)と母 佐藤麗子
(昭和36年〜54年東京音楽大学ピアノ科講師) を両親に持ち
1962年東京都渋谷区代々木の厳格な家庭に生まれる。
3才より母・佐藤麗子(1970年ショパン国際ピアノコンクール日本人初の審査員の永井進門下)
からピアノの英才教育を受ける。小2~小6桐朋学園大学音楽学部付属子供のための音楽教室、
中2~中3東京音楽大学付属音楽教室を経るが幼い頃から抱いていた
クラシック音楽への疑問が再捻出し1977年頃からポピュラー音楽(洋楽)に
あわせ夜な夜な踊りあかすようになった。
1978年東京音楽大学付属高校ピアノ演奏家コースにて井口愛子が(門下には中村紘子氏など)
日本全国より集めた小人数で編成したスペシャルクラスに抜擢されるが、
クラシック音楽への疑問は払拭できず1979年わずか1年弱で
東京音大付属高校ピアノ演奏家コースを中退。
佐藤の現在の鋭い感性、抜群のリズム感と豊かな表現力は、
すさみ踊り狂う日々により培われたものである。
このような毎日を送っていたため普通ではいられなくなり、複数の高校へ入退学を繰り返す。
その結果、厳格な両親により1981年約半年間、某施設に入れられることになる。
施設退所後、厳格な父により空手道場に入会させられる。
そこで1回目の結婚相手と出会い婚約。1983年無事に日本女子体育大学付属二階堂高校を卒業。
同年、東京音大ピアノ科に入学と同時に1回目の結婚。
その年の12月、その後のピアノ人生に影響を及ぼす衝撃的な出会いをする。
1980年ワルシャワにおけるショパン国際ピアノコンクール優勝者ダン・タイ・ソンが演奏する
ショパンピアノ協奏曲1番及び2番を聴き、ピアノの音色の美しさや演奏に魅了され
本気でピアノに精進するようになり、ソ連への留学を目指しピアノに人生を捧げるため離婚。
1985年旧ソ連白ロシア共和国ミンスク音楽院へ短期留学をする。東京音大卒業後
霧島国際音楽祭でダン・タイ・ソンの前でモーツァルト・ピアノソナタK333,第3楽章を
演奏をした際「天才的な演奏!」との発言で、佐藤の演奏を聴きにレッスン室に
入りきれないくらいの音楽祭参加者が集まった。
音楽祭後「あなたは非常に稀な才能の持ち主だ。私はあなたの自然な音楽と
ヨーロッパスタイルの演奏に魅了されている」と手紙を頂いた。
(原文は下記のChronologyにて参照)
また、ミンスク音楽院から帰国後、ロシア巨匠エミール・ギレリス門下の
教授から音楽院への入学許可されていたが、当時の日ソ間の協定によりかなわなかったため、
1988年ポーランド国立ショパン音楽院研究科に留学をする。音楽院1年修了後、
2年目にはロシア巨匠ゲンリッヒ・ネイガウス門下の教授の下で研鑽をするため
国立クラコフ音楽院研究科に転校した。
1989年ベルリンの壁崩壊をポーランドで経験。1990年第12回ショパン国際ピアノコンクールに
出願し必要な推薦状をダン・タイ・ソンとG・ネイガウス愛弟子から頂き、
コンクールへアプリケーションを提出したが思わぬアクシデントにより
ショパン協会より寄付を求められた。しかし正義感の強い佐藤は断り、
第1次予選への出場すらできなくなってしまった。
その結果、自暴自棄に陥り、その後23年間苦しむこととなる
フォーカル・ジストニアの種を生み出していくこととなる。
不安定な心のまま1995年帰国。その年の4月に予定されていた帰国記念リサイタルに向けて練習を
始めたところほとんど右手が動かなくなっていたが、そのままリサイタルを開催することとなり
手首を非常に高位置に置いたポジションなどで工夫した奏法でこなした。
しかし演奏する予定だった「ショパン/アンダンテスピアナートと大ポロネーズ」だけは、
細かい動きが演奏不可能だったため演奏直前ギリギリまで悩んだ末、舞台袖で突然キャンセルをし、
評論家から酷評を受けた。それは、現在で言うところの完治不可能とされているピアニストの職業病
フォーカル・ジストニアであった。やむなく演奏活動停止。
東京音大付属音楽教室ピアノ科や国内/国際コンクールなどの審査員で後進の指導にあたるなか、
指揮者に転科しようとしたこともあったが、鋭い感性と至極の音色をピアノで
表現することを諦めきれず、自己リハビリと、頭の中での演奏を熟成させていくことに専念。
治る見込みもないまま月日は経ち、1998年2回目の結婚相手に出会い結婚。
結婚2年後に子供を授かる。その年の11月に結婚相手の病気が発病し、
ベビーカーと車椅子を押す苦しい毎日が続くなか、発病2年後の2002年夫と死別。
その間も佐藤は、頭の中で演奏を熟成させていた。
約21年間頭の中での演奏や試行錯誤し続けた結果、独自の鍵盤リハビリのみで
2016年初頭に完全完治。元々持っていた機能を100%取り戻した。西洋医学の治療は
一切行っていない。現在、原因も完治方法も独自で完全明確に解明しており完全完治するには
本人自身が鍵盤リハビリを行う以外はないことを医学的な観点から証明するために。
2023年より順天堂大学大学院医学研究科医科学専攻神経学講座修士課程にて研究中
2018年浜離宮朝日ホール他3カ所にて復帰リサイタル。評論家より高評価を受ける。
(詳しくは Review へ)2019年9月マベリーニ音楽院で演奏。演奏後、イタリア各地リサイタル及び
マスタークラスのOfferを受けM&H Music Festival in Pistoiaを設立し、CEO/芸術監督に就任。
2020年東京文化会館コンサートホールの審査に通りリサイタルを開催、他2カ所。
再び評論家より高評価を受ける。(詳しくは Review へ)
2020年4月YouTubeチャンネル開始(HS classic Official Channel)
2022年7月、 日本演奏芸術医学研究会第一回設立記念学術集会で「ジストニアを乗り越えて」
を発表予定。会場:順天堂大学 有山登メモリアルホール
2022年9月、宗次エンジェル基金/日本演奏連盟正会員のための公演活動支援事業から
助成を頂きリサイタル開催。
2023年1月論文「音楽家ジストニアの発症機序と治療への考え方」
共著者:長谷川修(脳神経内科/横浜市大名誉教授)日本病院総合診療医学会よりaccep
t2023年4月市販流通CDレコーディング(株式会社fontec/小田原三の丸ホール(大
)2023年11月6日東京文化会館(小)リサイタル開催決定
【ゲンリッヒ・ネイガウス孫弟子】
数奇な運命をたどる正統派ピアニスト佐藤ひでこ
ロシア・ピアノ学派の開祖であるゲンリッヒ・ネイガウス直弟子に1980年代の旧ソ連時代から学び
ネイガウス奏法と30年以上探求してきた独自の奏法を結びつけた演奏は
本能からほとばしる極めて鋭い感性と至極の繊細な美音で紡ぎだす
1962年父 佐藤宗司(元フィリップスライティング株式会社取締役会長)と母 佐藤麗子(昭和36年〜54年東京音楽大学ピアノ科講師)
を両親に持ち1962年東京都渋谷区代々木の厳格な家庭に生まれる。
3才より母・佐藤麗子(1970年ショパン国際ピアノコンクール日本人初の審査員の永井進門下)からピアノの英才教育を受ける。
小2~小6桐朋学園大学音楽学部付属子供のための音楽教室、中2~中3東京音楽大学付属音楽教室を経るが
幼い頃から抱いていたクラシック音楽への疑問が再捻出し
1977年頃からポピュラー音楽(洋楽)にあわせ夜な夜な踊りあかすようになった。
1978年東京音楽大学付属高校ピアノ演奏家コースにて井口愛子が(門下には中村紘子氏など)
日本全国より集めた小人数で編成したスペシャルクラスに抜擢されるが、クラシック音楽への疑問は払拭できず
1979年わずか1年弱で東京音大付属高校ピアノ演奏家コースを中退。
佐藤の現在の鋭い感性、抜群のリズム感と豊かな表現力は、すさみ踊り狂う日々により培われたものである。
このような毎日を送っていたため普通ではいられなくなり、複数の高校へ入退学を繰り返す。
その結果、厳格な両親により1981年約半年間、某施設に入れられることになる。
施設退所後、厳格な父により空手道場に入会させられる。そこで1回目の結婚相手と出会い婚約。
1983年無事に日本女子体育大学付属二階堂高校を卒業。同年、東京音大ピアノ科に入学と同時に1回目の結婚。
その年の12月、その後のピアノ人生に影響を及ぼす衝撃的な出会いをする。
1980年ワルシャワにおけるショパン国際ピアノコンクール優勝者ダン・タイ・ソンが演奏する
ショパンピアノ協奏曲1番及び2番を聴き、ピアノの音色の美しさや演奏に魅了され
本気でピアノに精進するようになり、ソ連への留学を目指しピアノに人生を捧げるため離婚。
1985年旧ソ連白ロシア共和国ミンスク音楽院へ短期留学をする。東京音大卒業後
霧島国際音楽祭でダン・タイ・ソンの前でモーツァルト・ピアノソナタK333,第3楽章を演奏をした際
「天才的な演奏!」との発言で、佐藤の演奏を聴きにレッスン室に入りきれないくらいの音楽祭参加者が集まった。
音楽祭後「あなたは非常に稀な才能の持ち主だ。私はあなたの自然な音楽とヨーロッパスタイルの演奏に魅了されている」と手紙を頂いた。
(原文は下記のChronologyにて参照)
また、ミンスク音楽院から帰国後、ロシア巨匠エミール・ギレリス門下の教授から音楽院への入学許可されていたが、
当時の日ソ間の協定によりかなわなかったため、1988年ポーランド国立ショパン音楽院研究科に留学をする。
音楽院1年修了後、2年目にはロシア巨匠ゲンリッヒ・ネイガウス門下の教授の下で研鑽をするため
国立クラコフ音楽院研究科に転校した。1989年ベルリンの壁崩壊をポーランドで経験。
1990年第12回ショパン国際ピアノコンクールに出願し必要な推薦状をダン・タイ・ソンとG・ネイガウス愛弟子から頂き、
コンクールへアプリケーションを提出したが思わぬアクシデントによりショパン協会より寄付を求められた。
しかし正義感の強い佐藤は断り、第1次予選への出場すらできなくなってしまった。
その結果、自暴自棄に陥り、その後23年間苦しむこととなるフォーカル・ジストニアの種を生み出していくこととなる。
不安定な心のまま1995年帰国。その年の4月に予定されていた帰国記念リサイタルに向けて練習を始めたところ
ほとんど右手が動かなくなっていたが、そのままリサイタルを開催することとなり
手首を非常に高位置に置いたポジションなどで工夫した奏法でこなした。
しかし演奏する予定だった「ショパン/アンダンテスピアナートと大ポロネーズ」だけは、細かい動きが演奏不可能だったため
演奏直前ギリギリまで悩んだ末、舞台袖で突然キャンセルをし、評論家から酷評を受けた。
それは、現在で言うところの完治不可能とされているピアニストの職業病フォーカル・ジストニアであった。やむなく演奏活動停止。
その後、東京音大付属音楽教室ピアノ科や国内/国際コンクールなどの審査員で後進の指導にあたるなか、指揮者に転科しようとしたこともあったが、
鋭い感性と至極の音色をピアノで表現することを諦めきれず、自己リハビリと、頭の中での演奏を熟成させていくことに専念。
治る見込みもないまま月日は経ち、1998年2回目の結婚相手に出会い結婚。結婚2年後に子供を授かる。
その年の11月に結婚相手の病気が発病し、ベビーカーと車椅子を押す苦しい毎日が続くなか、発病2年後の2002年夫と死別。
その間も佐藤は、頭の中で演奏を熟成させていた。
約21年間頭の中での演奏や試行錯誤し続けた結果、独自の鍵盤リハビリのみで2016年初頭に完全完治。
元々持っていた機能を100%取り戻した。西洋医学の治療は一切行っていない。
現在、原因も完治方法も独自で完全明確に解明しており
完全完治するには本人自身が鍵盤リハビリを行う以外はないことを医学的な観点から証明するために
2023年より順天堂大学大学院医学研究科医科学専攻神経学講座修士課程にて研究中
2018年浜離宮朝日ホール他3カ所にて復帰リサイタル。評論家より高評価を受ける。(詳しくはReviewへ)
2019年9月マベリーニ音楽院で演奏。演奏後、イタリア各地リサイタル及びマスタークラスのOfferを受け
M&H Music Festival in Pistoiaを設立し、CEO/芸術監督に就任。
2020年東京文化会館コンサートホールの審査に通りリサイタルを開催、他2カ所。再び評論家より高評価を受ける。(詳しくはReviewへ)
2020年4月YouTubeチャンネル開始(HS classic Official Channel)
2022年7月、日本演奏芸術医学研究会 第一回設立記念学術集会で「ジストニアを乗り越えて」を発表予定
会場:順天堂大学 有山登メモリアルホール
2022年9月、宗次エンジェル基金/日本演奏連盟正会員のための公演活動支援事業から助成を頂きリサイタル開催。
2023年1月論文「音楽家ジストニアの発症機序と治療への考え方」
共著者:長谷川修(脳神経内科/横浜市大名誉教授)
日本病院総合診療医学会よりaccept
2023年4月市販流通CDレコーディング(株式会社fontec/小田原三の丸ホール(大)
2023年11月6日東京文化会館(小)リサイタル開催決定
天才的な間合い!《ダン・タイ・ソン(1980年ショパン国際ピアノコンクール優勝)霧島国際音楽祭1988年より》
非常にシャープな感性、純粋で真摯な音楽性、非凡な個性、貴重な才能《柴田龍一(音楽評論家)ムジカノーヴァ 2020年 5月号より》
Chronology
1965~1970年 母・佐藤麗子に師事(永井進門下、昭和36―54年東京音楽大学ピアノ科講師)
1970~1971年 桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室にて飯守美絵子に師事
1971~1974年 桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室にて山口喜久子に師事
1976~1978年 東京音学大学付属音楽教室にて志村安英、井口愛子に師事
1978~1979年 東京音学大学付属高校ピアノ演奏家コース入学・中退
1979~1981年 この間、他の2つの高校を入学・編入・中退
1981年 某施設に入れられる
1981〜1983年 2学年遅れて、日本女子体育大学附属二階堂高校編入、卒業
1982年 7月頃、音楽の道に戻る決心をし、受験のためピアノを再開
1983年 東京音楽大学ピアノ科入学、関根有子、井口愛子、中島和彦、野島稔に師事
1983年 1回目の結婚
1983年 ダン・タイ・ソンのショパンピアノ協奏曲第1番と2番を聴き、美しい響きと自然な流れの心に響く演奏を聴き
初めてピアノに魅了された
1985年 離婚
1985年 旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国国立音楽院にてナターリア・チョムキーナ(ソ連巨匠エミール・ギレリス
門下)及び、アレクサンドル・ツェリャコフに師事、ミンスク音楽院にて演奏
1986年 ナターリア・チョムキーナ教授よりベラルーシ共和国国立音楽院ピアノ科に入学許可されるが、日ソ間協定
により実現せず
1987年 東京音楽大学ピアノ科卒業
1987~1995年 ダン・タイ・ソンに師事(東京、霧島(鹿児島)、ワルシャワ、ハンブルグ、モントリオール)
1988年 霧島国際音楽祭に参加モーツァルト・ピアノソナタK333,第3楽章を演奏をした際、ダン・タイ・ソンから
「Oh ! Genius !」との発言で、演奏を聴きに部屋に入りきれないくらいの音楽祭参加者が集まった
後日「You have a quit unordinary talent, most of all I like your natural
way of feeling of music, and the Europian style
of playing !」と手紙を頂いた
1988~1994年 ポーランド・ワルシャワ在住
1988~1989年 ポーランド国立ショパン音楽院Postgraduate入学、1年修了、カジミエシュ・ゲルジョードに師事
1989年 旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国の首都ミンスクにてナターリア・チョムキーナに師事
1989~1990年 ポーランド国立クラコフ音楽院Postgraduate転校、2年修了、イリーナ・スイヤウォーバ(ロシア巨匠ゲンリッヒ
ネイガウス門下)に師事
1990年 オールショパンプログラムリサイタル(クラコフ音楽院大ホール)
1992年 ディミトリー・バシュキーロフのマスタークラスに参加(モーツァルテウム国際サマーアカデミー)
1994年 イタリア・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクール・ロマン派部門ディプロマ(ショパンピアノ協奏曲第2番・
ルーマニア国立クライウコーヴァ交響楽団・オヴィディオ・バラン指揮)
1994年 バルセジア国際アカデミーにて、岩崎淑、ヴィンチェンツォ・バルザーニ師事、ディプロマ取得
1994年 ヴィオッティ・ヴァルセジア国際コンクールガラコンサート・ショパンピアノ協奏曲第2番演奏
(ルーマニア国立クライウコーヴァ交響楽団・オヴィディオ・バラン指揮)
1994~1995年 カナダ・トロントに在住し、ナターリア・チョムキーナに師事(内弟子)
モントリオールにて、ダン・タイ・ソンに師事
1995年 帰国、フォーカル・ジストニア発症し中指・親指が全く上がらなくなった(1989年頃より少しずつ悪化)
1995年 関根有子、岩崎淑に師事
1995年 帰国記念リサイタル(後援:日本フィリップスなど)津田ホール(東京)、大泉町文化むら大ホール(群馬)
、新発田市民会館(新潟)フォーカル・ジストニアで指の自由が利かないながら、手首を非常に高位置に
置いたポジションなど工夫して演奏をこなした
1995年 沖縄ムーンビーチ・ミュージックキャンプ&フェスティバル(現沖縄国際音楽祭)にてメンデルスゾーン・
ピアノ六重奏を演奏予定だったが、フォーカル・ジストニア症状が治まらず急遽キャンセル、岩崎淑の
逆鱗にふれた フェスティバル期間中、ヴィンチェンツォ・バルザーニ、岩崎淑、岩崎洸(チェリスト)、
福田進一(ギタリスト)にフォーカル・ジストニアの症状を見せた所その動きをみて、愕然としていた
1995年 フォーカル・ジストニア発症のため演奏活動停止
1998年 2回目の結婚
2000年 出産
2002年 死別
2016年 フォーカル・ジストニア完全完治
2017~2018年 浜離宮朝日ホールリサイタルに向け、岩崎淑に師事
2018年 フォーカル・ジストニアから完全復活の復帰リサイタル浜離宮朝日ホール、藤沢市民会館大ホール、
赤坂ベヒシュタインサロン、すみだチェリーホール
2018年 海外進出を目指すピアニストのためのオーデション「AfiAピアニスト・オーデション2018」村中大祐(指揮)
主催、イタリア文化会館協力にてイタリア・トスカーナ音楽祭の一環ピストイアでのセミナー付き演奏権利を獲得
2019年 イタリア・ピストイアにて演奏
2020年 フォーカル・ジストニアからの復活第2弾リサイタル東京文化会館(小)、逗子文化プラザなぎさホール、
二宮町生涯学習センター ラディアンホールにて、リサイタル
2020年 YouTube【HSclassic Official Channel】開設
2020年 逗子文化プラザなぎさホールにてYouTube用公開動画収録
2021年 二宮町生涯学習センターラディアンホールにてYouTube用動画収録
2022年 3月小田原三の丸大ホールにて動画収録
2022年 5月逗子文化プラザなぎさホールにて動画収録
2022年 9月「宗次エンジェル基金/日本演奏連盟正会員のための公演活動支援事業」から助成金を頂き
小田原三の丸大ホールにてリサイタル
2022年 10月HSclassic International Piano Performance institut 設立(奏法研究&レッスン)
2023年 4月順天堂大学大学院 医学研究科 医科学専攻 神経学講座 修士課程1年入学
2023年 4月市販流通CDレコーディング(株式会社fontec/小田原三の丸ホール大ホール)
2023年 11月6日CDリリース記念リサイタル(東京文化会館小ホール)
Work history & academic societies
1987年~不明 日ソ音楽家協会正会員(ワルシャワ留学で会費無納入のため資格消滅)
1996~2019年 ピティナ・ピアノステップアドバイザー
1987~1988年 日ソ協会正会員、日本ベトナム友好協会会員
1992~ (公社)日本演奏連盟正会員
1995~2019年 ピティナ・ピアノ・コンペティション審査員
1995~2019年 (一社)全日本ピアノ指導者協会フェステバル実行委員(旧企画委員会)
1995~2010年 (一社)全日本ピアノ指導者協会国際委員
1996~2013年 東京音楽大学付属音楽教室ピアノ科助手
1996~ 日本・ロシア音楽家協会正会員
1996~2019年 日本音楽療法学会正会員
2000~2010年 (一社)全日本ピアノ指導者協会国際委員会副委員長
2014~2018年 日本・ロシア音楽家協会事務局
2016~ 全日本ジュニアクラシック音楽コンクール審査員
2017~ 東京国際ピアノコンクール審査員
2018~ 楽器奏者のためのフォーカル・ジストニア回復レッスン
2020~ 【M & H Music Festival in Pistoia】CEO、芸術監督、ピアノ教授
2022~ HSclassic International Piano Performance institut CEO、ピアノ教授
Interview & Press Release
1994年 La-provincia(イタリアの新聞、6月2日刊第14項)
1995年 ショパン5月号「ピアニストの近況」
1995年 フレッシュおおいずみ3月号(財)大泉町スポーツ文化振興事業団発行
1995年 上毛新聞(4月13日刊)
1995年 おおたタイムス(4月15日刊)
1995年 おおたタイムス(4月22日刊)
1995年 ムジカノーヴァ6月号「マイコンサート・グラビア項」
2003年 ショパン1月号「ピアニストの近況」
2016年 ショパン5月号「素敵なピアノ部屋」
2016年 ショパン6月号「ピアニストたちはいま・・・・・」
2018年 朝日新聞めざましタイムス・湘南エリア版(3月号)
2018年 神奈川新聞(3月23日刊)
2018年 プロの流儀をとことん聞き取る「キキゴタエ」
2019年 逗子文化プラザホール&ギャラリーニュース(10月1日刊)
2019年 神奈川新聞(12月13日刊)
2020年 鎌倉朝日(1月1日刊)
2020年 読売新聞 夕刊(2月6日刊)
2022年 神奈川新聞(8月5日刊)
Interpreter job
1994年 ラファウ・ウシチェフスキー(ピアニスト・ショパン1月号・ポーランド語)
1995年 レギナ・スメンジャンカ(インタビュー・草思社ピアノの本・ポーランド語)
1995年 レギナ・スメンジャンカ(ピアニスト・霧島国際音楽祭・ポーランド語)
1997年 ワレリー・ヴラジミール・カステルスキー(ピアニスト・個人レッスン・ロシア語)
1995年 レギナ・スメンジャンカ(公開講座・東郷音楽院・南日本新聞後援・ポーランド語)
1999年 エフゲニー・ザラフィアンツ(当時クロアチア・ミルコビッチ音楽院教授・個人レッスン・英語)
Chronology
1965~1970年 母・佐藤麗子に師事
(永井進門下、昭和36―54年東京音楽大学ピアノ科講師)
1970~1971年 桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室にて
飯守美絵子に師事
1971~1974年 桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室にて
山口喜久子に師事
1976~1978年 東京音学大学付属音楽教室にて志村安英、井口愛子に師事
1978~1979年 東京音学大学付属高校ピアノ演奏家コース入学・中退
1979~1981年 この間、他の2つの高校を入学・編入・中退
1981年 某施設に入れられる
1981〜1983年 2学年遅れて、日本女子体育大学附属二階堂高校編入、卒業
1982年 7月頃、音楽の道に戻る決心をし、受験のためピアノを再開
1983年 東京音楽大学ピアノ科入学、関根有子、井口愛子、中島和彦、
野島稔に師事
1983年 1回目の結婚
1983年 ダン・タイ・ソンのショパンピアノ協奏曲第1番と2番を聴き、
美しい響きと自然な流れの心に響く演奏を聴き初めてピアノに
魅了された
1985年 離婚
1985年 旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国国立音楽院にて
ナターリア・チョムキーナ(ソ連巨匠エミール・ギレリス門下)
及び、アレクサンドル・ツェリャコフに師事、
ミンスク音楽院にて演奏
1986年 ナターリア・チョムキーナ教授よりベラルーシ共和国国立音楽院
ピアノ科に入学許可されるが、日ソ間協定により実現せず
1987年 東京音楽大学ピアノ科卒業
1987~1995年 ダン・タイ・ソンに師事(東京、霧島(鹿児島)、ワルシャワ、
ハンブルグ、モントリオール)
1988年 霧島国際音楽祭に参加モーツァルト・ピアノソナタK333,第3楽章
を演奏をした際、ダン・タイ・ソンから「Oh ! Genius !」
との発言で、演奏を聴きに部屋に入りきれないくらいの
音楽祭参加者が集まった後日「You have a quit unordinary talent
most of all I like your natural way of feeling of
music, and the Europian style ofplaying !」と手紙を頂いた
1988~1994年 ポーランド・ワルシャワ在住
1988~1989年 ポーランド国立ショパン音楽院Postgraduate入学、1年修了、
カジミエシュ・ゲルジョードに師事
1989年 旧ソビエト連邦ベラルーシ共和国の首都ミンスクにて
ナターリア・チョムキーナに師事
1989~1990年 ポーランド国立クラコフ音楽院Postgraduate転校、2年修了、
イリーナ・スイヤウォーバ
(ロシア巨匠ゲンリッヒネイガウス門下)に師事
1990年 オールショパンプログラムリサイタル(クラコフ音楽院大ホール)
1992年 ディミトリー・バシュキーロフのマスタークラスに参加
(モーツァルテウム国際サマーアカデミー)
1994年 イタリア・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクール・ロマン派部門
ディプロマ(ショパンピアノ協奏曲第2番・ルーマニア国立
クライウコーヴァ交響楽団・オヴィディオ・バラン指揮)
1994年 バルセジア国際アカデミーにて、岩崎淑、
ヴィンチェンツォ・バルザーニ師事、ディプロマ取得
1994年 ヴィオッティ・ヴァルセジア国際コンクールガラコンサート・
ショパンピアノ協奏曲第2番演奏
(ルーマニア国立クライウコーヴァ交響楽団・
オヴィディオ・バラン指揮)
1994~1995年 カナダ・トロントに在住し、
ナターリア・チョムキーナに師事(内弟子)
モントリオールにて、ダン・タイ・ソンに師事
1995年 帰国、フォーカル・ジストニア発症し中指・親指が
全く上がらなくなった(1989年頃より少しずつ悪化)
1995年 関根有子、岩崎淑に師事
1995年 帰国記念リサイタル(後援:日本フィリップスなど)
津田ホール(東京)、大泉町文化むら大ホール(群馬)、
新発田市民会館(新潟)フォーカル・ジストニアで指の自由が
利かないながら、手首を非常に高位置に置いたポジションなど
工夫して演奏をこなした
1995年 沖縄ムーンビーチ・ミュージックキャンプ&フェスティバル
(現沖縄国際音楽祭)にてメンデルスゾーン・ピアノ六重奏を
演奏予定だったが、フォーカル・ジストニア症状が治まらず
急遽キャンセル、岩崎淑の逆鱗にふれた フェスティバル期間中、
ヴィンチェンツォ・バルザーニ、岩崎淑、岩崎洸(チェリスト)、
福田進一(ギタリスト)にフォーカル・ジストニアの症状を
見せた所その動きをみて、愕然としていた
1995年 フォーカル・ジストニア発症のため演奏活動停止
1998年 2回目の結婚
2000年 出産2002年 死別
2016年 フォーカル・ジストニア完全完治
2017~2018年 浜離宮朝日ホールリサイタルに向け、岩崎淑に師事
2018年 フォーカル・ジストニアから完全復活の復帰リサイタル
浜離宮朝日ホール、藤沢市民会館大ホール、
赤坂ベヒシュタインサロン、すみだチェリーホール
2018年 海外進出を目指すピアニストのためのオーデション
「AfiAピアニスト・オーデション2018」村中大祐(指揮)主催、
イタリア文化会館協力にてイタリア・トスカーナ音楽祭
の一環ピストイアでのセミナーを獲得
2019年 イタリア・ピストイアにて演奏
2020年 フォーカル・ジストニアからの復活第2弾リサイタル東京文化会館
逗子文化プラザなぎさホール、二宮町生涯学習センター ラディアン
にて、リサイタル
2020年 YouTube【HSclassic Official Channel】開設
2020年 逗子文化プラザなぎさホールにてYouTube用公開動画収録
2021年 二宮町生涯学習センターラディアンホールにてYouTube用動画収録
2022年 10月HSclassic International Piano Performance institut
設立(奏法研究&レッスン)
2022年 3月小田原三の丸大ホールにて動画収録
2022年 5月逗子文化プラザなぎさホールにて動画収録
2022年 宗次エンジェル基金/日本演奏連盟正会員のための公演活動支援事業
から助成金を頂き小田原三の丸大ホールにてリサイタル
2023年 4月順天堂大学大学院 医学研究科 医科学専攻 神経学講座 修士課程1年入学
2023年 4月市販流通CDレコーディング(株式会社fontec
小田原三の丸ホール大ホール)
2023年 11月6日東京文化会館小ホール CDリリース記念リサイタル
Work history & academic societies
1987年~不明 日ソ音楽家協会正会員
(ワルシャワ留学で会費無納入のため資格消滅)
1996~2019年 ピティナ・ピアノステップアドバイザー
1987~1988年 日ソ協会正会員、日本ベトナム友好協会会員
1992~ (公社)日本演奏連盟正会員
1995~2019年 ピティナ・ピアノ・コンペティション審査員
1995~2019年 (一社)全日本ピアノ指導者協会フェステバル実行委員
(旧企画委員会)
1995~2010年 (一社)全日本ピアノ指導者協会国際委員
1996~2013年 東京音楽大学付属音楽教室ピアノ科助手
1996~ 日本・ロシア音楽家協会正会員
1996~2019年 日本音楽療法学会正会員
2000~2010年 (一社)全日本ピアノ指導者協会国際委員会副委員長
2014~2018年 日本・ロシア音楽家協会事務局
2016~ 全日本ジュニアクラシック音楽コンクール審査員
2017~ 東京国際ピアノコンクール審査員
2018~ 楽器奏者のためのフォーカル・ジストニア回復レッスン
2020~ 【M & H Music Festival in Pistoia】CEO、芸術監督、ピアノ教授
2022~ HSclassic International Piano Performance institut CEO、ピアノ教授
Interview & Press Release
1994年 La-provincia(イタリアの新聞、6月2日刊第14項)
1995年 ショパン5月号「ピアニストの近況」
1995年 フレッシュおおいずみ3月号(財)大泉町スポーツ文化振興事業団発行
1995年 上毛新聞(4月13日刊)
1995年 おおたタイムス(4月15日刊)
1995年 おおたタイムス(4月22日刊)
1995年 ムジカノーヴァ6月号「マイコンサート・グラビア項」
2003年 ショパン1月号「ピアニストの近況」
2016年 ショパン5月号「素敵なピアノ部屋」
2016年 ショパン6月号「ピアニストたちはいま・・・・・」
2018年 朝日新聞めざましタイムス・湘南エリア版(3月号)
2018年 神奈川新聞(3月23日刊)
2018年 プロの流儀をとことん聞き取る「キキゴタエ」
2019年 逗子文化プラザホール&ギャラリーニュース(10月1日刊)
2019年 神奈川新聞(12月13日刊)
2020年 鎌倉朝日(1月1日刊)
2020年 読売新聞 夕刊(2月6日刊)
2022年 神奈川新聞(8月5日刊)
Interpreter job
1994年 ラファウ・ウシチェフスキー
(ピアニスト・ショパン1月号・ポーランド)
1995年 レギナ・スメンジャンカ
(インタビュー・草思社ピアノの本・ポーランド語)
1995年 レギナ・スメンジャンカ
(ピアニスト・霧島国際音楽祭・ポーランド語)
1997年 ワレリー・ヴラジミール・カステルスキー
(ピアニスト・個人レッスン・ロシア語)
1995年 レギナ・スメンジャンカ
(公開講座・東郷音楽院・南日本新聞後援・ポーランド語)
1999年 エフゲニー・ザラフィアンツ
(当時クロアチア・ミルコビッチ音楽院教授・レッスン・英語)